私の戦争体験と日本の将来

今更とは思うが、戦争を知らない人たちにと思い書くことにした。敗戦後の体験記を書くのは辛いことばかり多かっただけに、どうしても暗くなってしまいがちだし、先の戦争そのものを全否定する間違った教育が続く中なかなか書く気になれなかった。しかし、後輩のために参考になるならと思い書くことを決意した。
 大東亜戦争中、父が富山の営林署に勤務していたので私が小学校に入学したのは富山市の安野屋尋常小学校であった。昭和19年私が4年生の時、父はゴムなどの資源確保のためにインドネシアのジャワ営林署長として赴任することになり、家族は父の故郷飛騨の高山に転居し、私は高山市立南国民学校に転校しなければならなかった。落ち着く間もなく私は母に連れられて父を見送るため広島県呉の軍港に行った。自分は子供だったし、よく分からないまま父にお土産に南洋の美味しい果物をおねだりしたことを鮮明に覚えている。しかし、考えてみれば戦況はすでに末期であり、国のため父は死を覚悟で赴任したのであろう。父は出港して台湾、フィリピンまでは着いたもののジャワ島に向けて出港した直後にコレヒドール沖で撃沈され戦死してしまった。戦死したのは昭和19年10月19日で、ちょうど神風特攻隊が編成された時期と同じ頃である。結局ジャワには赴任できず仕舞いに終わってしまったのである。
 その頃ジャワは今村均陸軍大将の善政であったため現地に赴任できさえしていれば助かったのだろうが如何にも遅すぎた。このことが以後ずっとわが家を苦しめることになった。父方の親戚とはいえ母は何かと気苦労したようで私たち兄弟も親戚の農作業を手伝ったり、酷寒の冬に食料をわけてもらうため農家を訪ね歩き、母は自分の着物と米などと物々交換しながらの筍生活だった。自分も母にお供をしたことがあるので、とても辛かったことをよく覚えている。しばらくは高山に在住したものの母としては父方の親戚に頼ってばかりはいられなかったのだろう。母は敗戦後3年目に自分の故郷岡山の実家を頼って転居する決心をした。昭和23年私が小学校6年生3学期のときの転校で、たった3ヶ月だけの岡山操南小学校での在籍であった。その後は岡山で丸の内中学校、操山高校に在籍した。そんなわけで私たち家族は幸い直接空襲などの戦災には遭わなかったが、父親を失い、長男は復員したものの自分を含めて次男以下はまだ学生であった。3人の兄は上の学校に進むことはできず生活のために働かなければならなかった。私も大学など進学できる状況ではなかったが兄たちの奨めと協力のお陰で進学することができた。母は私の学費を稼ぐために夜遅くまで着物の仕立て物の内職をしながら援助してくれた。この時ほど父親の戦死がわが家を苦しめたことはなかったように思うが、辛く苦しい環境でもみんなが助け合って支え合うことができたことは喜びであり、同時に感謝の気持ちでいっぱいである。自分は化学が好きだったし、敗戦で劣悪な生活を強いられ続けなければならなかった日本の国を何とかしなければと思い、神戸大学工学部工業化学科に進学できた。卒業後は化学系の会社に就職し、研究所で開発研究に励んだ。振り返ってみるとあの時の辛い経験が自分をより強くしてくれたように思う。辛かった経験は過ぎ去ってしまうと楽しい思い出にもなるようだ。
 このような辛い体験は自分だけではなく、戦死、爆撃、原爆その他でもっと酷い目に遭った人たちが沢山いた筈である。日本国中が焼け野原となり壊滅状態のなかで今の日本を蘇らせたのは日本人の根性であり、勤勉さと努力の賜物であろう。しかし、いつの間にか民主主義という名の非道徳的で利己的、無責任、偏向教育が横行してしまった。この戦争で日本のために犠牲になった340万人の尊い御霊に対する感謝の気持ちを決して忘れてはならない。この人たちの犠牲があっての今の日本があるということを。
 しかし、戦後75年経っても日本人自身が自虐的教育を信じる人たちも多い。ありもしない他国による虚構の歴史観、プロパガンダに悩まれ続けているのが現状である。戦勝国による東京裁判を後にマッカーサー自身が反省し自分が間違っていたことを認めているのだから、濡れ衣的東京裁判史観即ち戦後レジー厶から脱却しなければならないと考える。日本人が本当の近現代史を知らない、そして日本人が日本を貶める異常なマスコミなど日本人自体がまともにならないと日本の将来が危ない気がしてならない。
 私は15年以上ブログを書き続け、総理官邸に意見メールを送り続けている。戦争を体験したジェネレーションも先が短い。生きているうちにまともな日本にしなければならない。

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